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熱い若者に道開きたい (朝日新聞H18・7・3)

2006.07.26
 <b>本校硬式野球部の池田和隆総監督兼GMが朝日新聞(7月3日)にて紹介されました。</b>


 行商をしながら野球に打ち込んだ「あけぼの通商」。社長だった池田義定(84)は、選手たちから「オヤジ」と呼ばれていた。
 福岡県宇美町の自宅を訪ねると、当時のことを懐かしんだ。「一生懸命に上を目指す若者に、道を開いてやりたかった」
 
 長崎・島原高の元球児。60年代、知人の紹介で中日のスカウトを務めた。その後も、選手発掘の楽しさが忘れられず、九州一円から無名の有望株を探し出し、長男の和隆(57)が監督だった名古屋の社会人チームに送り込んでいた。
 芽が出ない選手に働き口を提供するため、75年に設立したのが「あけぼの」だった。実家が営んでいた映画館「あけぼの座」から社名をとった。
 76年秋、和隆のチームが石油ショックの後遺症で廃部になった。選手たちは、和隆に泣いて訴えた。「みんなで九州に帰って野球がしたい」
 オヤジはチームごと引き取った。「あけぼの」は翌年1月に日本野球連盟に加入。最初の1年間は和隆、以降は次男の知隆(55)らが監督を務めた。

 恵まれた環境ではなかった。自前の練習場はなく、借りていた町営グランドは狭い軟式用。ファウルは塀の外の茂みに消える。経済的にボールは1個もなくせない。全員で必死に探した。
 寮は6畳間に2段ベットが2組ずつ。汗のにおいがたちこめ、湿っぽかった。いびきと歯ぎしりが廊下まで聞こえた。
 常時、プロを目指す20人ほどがいたが、数日で姿を消した選手も多い。約9年間の活動中に延べ何人が所属してたのか、だれもわからない。
 鹿児島・加治木工高出身の重田五男(50)は、かばん一つで名古屋から「あけぼの」へ向かった1期生の一人だ。
 オヤジは細見で背が高く、明るくて冗談好きだった。野球の技術はあまり教わらなかったが、生活態度にはうるさかった。靴を乱雑に脱ぎ捨てたり、風呂の掃除をさぼったりすると呼び止められた。「私生活がだめな選手はプロで長続きしないぞ」が口癖だった。
 捕手の重田は、無名の自分を拾ってくれたオヤジの恩に報いたくて、メンバー不足を補うため打撃投手も買って出た。それで肩を壊し、82年に退社。夢かなわずサラリーマンになったが、懸命に頑張れたことで満足だった。
 
 和隆は「あけぼの」を離れた後、九州産業大の監督を24年間務めた。今年4月、北九州市のスポーツ専門学校の野球部総監督に。名古屋時代も含め約30年間の指導者歴の総決算にするつもりだ。
 選手を探して全国の高校を駆け回る。「技術よりも、野球への重いが熱い若者と一緒にやりたい」と思う。
 昔のオヤジと同じように。

 

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