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2011.05.27

衆議院文教科学委員会に出席  佐伯年詩雄先生

学校法人タイケン学園のスーパーバイザー佐伯年詩雄先生が、5月27日(金)の衆議院文部科学委員会に、参考人として出席しました。

文部科学行政の基本施策に関する件で、スポーツ基本法(案)に関する集中審議の中で、国会議員の皆さんに解説・説明をする立場としての出席です。


≪佐伯年詩雄先生プロフィール≫
東京教育大学卒業。東京教育大学大学院修士課程修了。学校法人タイケン学園スーパーバイザー。筑波大学名誉教授。文部省保健体育審議会専門委員会委員、全国体育学習研究会会長等を歴任。専攻はスポーツ社会学。著書に『現代スポーツを読む』(世界思想社)など多数がある。平成24年より日本ウェルネススポーツ大学教授に就任予定。

≪佐伯年詩雄先生コメント(衆議院会議録より抜粋)≫
 多分、日本におりますスポーツ研究者の立場を代表する、そんな形でお話しすることになると思いますので、よろしくお願いいたします。ちょっとアカデミックな話になりますが、お許しいただきたいと思います。
 お手元に資料が配付されると思いますが、一つは小冊子になっております。これは数年前に出したものです。これは、日本のスポーツが今どういう課題を抱えているか、その解決のために何がなされなければいけないかということについて簡単にまとめたものでございまして、「日本スポーツイノベーション」というタイトルをつけております。また時間があるときにぜひごらんいただきたいと思います。
 この中に、スポーツ法・制度の整備ということを一つうたっております。
 今、私どもが非常に強く歓迎しながら、また同時に問題点があると思って考えておりますのは、御承知かと思いますが、スポーツ基本法を制定するという動きでございます。積極的な政治のスポーツ支援、多分、こういう方向については多くのスポーツ人はもろ手を挙げて賛成する、そういう姿勢があると思います。
 ただ、そこで幾つかの問題点がございまして、私は、きょうのお話を、そのスポーツ基本法をめぐる基本的な問題ということで、三点に絞ってお話ししようというふうに思っております。
 一点は、スポーツとは何かということをめぐる問題、それから二点目は、スポーツ団体の自治、自立の問題、三点目は、国際的な潮流、ごく簡単に申し上げますと、二十世紀のスポーツはネーションステートのフレームの中で成長しました。それはまさに、オリンピックや国際競技大会に象徴されるようにですね。二十一世紀のスポーツは、この国民国家のフレームをどうやって超えてグローバルな世界に貢献できるかという課題に今目を向けつつあるという状況にあります。
 そういう大きな歴史的な転換点に立って日本という国はスポーツに関する基本的な法律をつくろうとしている、そういう位置づけをぜひ御理解いただいた上で御検討いただければと思います。
 まず、スポーツをめぐる問題、スポーツとは何かをめぐる問題です。
 御承知のように、一九六一年に、東京オリンピックを三年後に控えて、日本は初めてスポーツに関する法律をつくりました。現行のスポーツ振興法という法律でございます。
 その法律がつくられた経緯は、いろいろあるわけですけれども、一つは、それまで、スポーツに関する支援策を含めて国の関係というのは、社会教育法という教育に関する法律のフレームの中で行われていたわけです。簡単に申し上げますと、社会教育法のフレームでは、本格的なスポーツでありますオリンピックを実施する上で、国が支援策を具体的に展開する上で支障がある、スポーツに関する独自の法律が必要だということでスポーツ振興法という法律がつくられたというふうに考えていいと思います。
 そのときに、この法律で言うスポーツとはという定義がございます。第二条でございます。この法律で言うスポーツとは、あれこれありますが、心身の健全な発達のために行うものであるという定義があるわけです。これを私たちは、体育的定義と言います。
 皆さん方もスポーツを楽しまれると思いますが、多くの人のスポーツの最初の最も重要なものは何かといったら、運動することの楽しさですね。それをこの法律は全く評価していないということなんです。むしろ、心身の健全な発達、つまり、教育的な価値や意義を持つものがスポーツだというふうに定義している。この定義のもとにずっと五十年、日本のスポーツ振興は実は行われてきているわけです。
 その間、スポーツも変わりましたし、国民の生活も大きく変わりました。世界の情勢も変わりました。そういうことも含めて、新しい法律が日本ではスポーツについて必要であるということは、多くの方々がもう随分前から主張してきているわけです。
 その一番大きな理由が何かといったら、この体育的定義からいかに飛躍するかということなんです。この体育的定義、何々のために行うのがスポーツだという言い方ですね。ここからいかに飛躍できるか。
 例えば、一九六四年の東京オリンピックの開催に際して、IOCはオリンピック記念スポーツ科学会議というのを開催します。それは東京オリンピックだけじゃなくて、すべてのオリンピックに際してです。オリンピックは、御承知のように芸術部門も持っておりますし、それから、こういう知的な部分も持っているわけです。そのトータルな意味で、人間的な成長、成熟に向けた国際的な連帯の営みだというふうに考えていいわけです。
 そのオリンピック・スポーツ科学会議、一九六四年の東京のときです。このときに、世界で初めて、スポーツとは何かという定義を共通理解しようという動きがありました。そして、四年後の一九六八年のメキシコ・オリンピックまでの四年間にわたって、この東京の科学会議で出された提言を持ち回りで四年間審議して、そして、四年後のメキシコ・オリンピックのオリンピック科学会議で採択したものがあります。
 そこにおけるスポーツの定義が、第一条件が、スポーツはプレーの性格を持っている、つまり、遊びの性格を持っているという定義です。そして、人または自然の障害に挑戦する活発な身体活動である。このスポーツが競争として行われるときは、スポーツマンシップとフェアプレーが重要である。それのないところに真のスポーツはない。こういう見事な定義ですね。この定義は約五十年前に行われて、つまりこれが、スポーツとは何かということを考えるときの国際標準だということなんです。
 このことはいろいろな形で問題になるところがあるわけですが、多くの先進国が、ある意味でいいますと、スポーツに関する直接的な法律というものは余り持っておりません。それは、今申し上げたように、スポーツの第一条件はプレーであるという、それはまた、行うこと自身に目的があるということなんです。ですから、こういうスポーツの一種の私事性というもの、これを尊重するために、なかなかそれを直接的な法律で取り扱うことをしてこなかったわけです。
 しかし、最近は、御承知のようにスポーツの公益性が非常に高くなっておりますので、それを推進しようという動きはいろいろなところで出てきておりますが、基本的には、スポーツは今お話ししたような遊びの一種であって、それは私ごとである。政治がそれに関与する場合には、そのスポーツの文化的な特性を最も尊重する形で関与しなければならない。そういうスタンスです。
 私が拝見しておりますスポーツ議員連盟の方々のスポーツ基本法の試案、一番最初に前文で、「スポーツは、世界共通の人類の文化である。」こううたっております。そしてその次に、スポーツは、心身の健全な発達、あるいは人格の養成、あるいは精神的な涵養のために行う個人または集団の運動である、身体活動であるというふうに定義しているわけです。ここに大きな矛盾があるということになります。
 世界共通の人類の文化であるということは、世界標準を満たすスポーツを意味しているわけです。これは、スポーツというのは、運動の楽しみあるいは喜びを基調にする、世界共通の人類の文化だと。このスポーツの文化的な特性を本当に尊重するときに、初めて、スポーツが持っているさまざまな可能性が花開くんだ。スポーツをやらされて、強制されて、本当に健康のためになるだろうか、あるいは心が豊かになるだろうか、あるいは本当の人格形成に寄与できるだろうか。ここに非常に大きなギャップがあります。
 簡単に言えば、欧米の国々では、スポーツがまずそういう文化だという土俵が共通理解にあって、それを尊重して、初めて、スポーツが有しているさまざまな可能性が現実化するという見方があります。
 ところが、残念ながら、私が今までに見聞きしております今回のスポーツ基本法の最初の前文の、つまり、この法律を定めることの意義、法律の存在理由になりますけれども、その非常に重要なところでこうした考え方がまだとられていない。スポーツは何々のために行われるものである、目線の形でいえば行わせる側の目線、行う側の目線ではありません。
 皆さんも、スポーツをなさるときにあれこれ言われて何かのためにやれということでは、恐らくそうエンジョイできないと思います。そこに一つ大きな問題点があるということですね。
 文化としてスポーツを尊重するということは、そのスポーツが持っている内在的価値といいます、行うこと自身の持っている価値、これを尊重することだと。
 例えば皆さんは、ベートーベンの音楽がすばらしいというのは、それが耳の役に立つからすばらしいというわけではない。その音楽がつくり出す世界そのものがすばらしいというふうに理解していると思います。あるいはピカソの絵がすばらしいというのは、ピカソの絵を見ていると近眼が治ったり視力がよくなったり、だからすばらしいというふうにはだれも解釈しませんね。文化として芸術が尊重されるのは、実は、そのこと自体の中に、喜びや感動や、そういうものを生み出す基本的な価値があるということであります。
 スポーツの一つの悲願は、スポーツが、芸術や学問、つまり、それが文化として尊重されるからこそその自由を大事にしなきゃいけない、そういうスポーツの文化的な地位についての社会的な確立なんですね。
 今回のスポーツ基本法を定めるということは、スポーツの価値を非常に高く評価していただいているので、その点については私も全く同感でございますが、ただ、その位置づけについて、今お話ししたような基本的な問題がある。
 皆さんが、子供が勇敢で雄々しく育つ、あるいは、人々がそれを通じて心を割って交流し合える、そういうスポーツが持っている豊かな可能性を本当に現実化しようと思うのであれば、その前提として、スポーツはまず自発的に運動を楽しむ、そういう文化であるということを認めていただきたいというふうに思うわけです。
 二番目のスポーツ団体の自立、これは、簡単に申し上げれば、今申し上げたスポーツの自由というのをどこが担保するか。これは国が担保するものでもないし、これは、要するにスポーツ愛好者相互のサポート体制、これで担保する。これがスポーツの伝統であります。ですから、非常に早くスポーツは国際組織をつくっております。
 多分、国際赤十字に次いで世界で最も強く、また、二番目に大きな力を持っている、NGOの代表的なものだというふうに思います。当時、まだNGOという言葉はありませんけれども、IOCを初め、FIFA、こういうものが政府を超えていかに国際連帯をしているか、そういう視点で見れば、これは本当に、国際赤十字と並ぶ、いわばNGOの最たるものであるというふうに考えていいわけです。これは同時に、スポーツの自由を守るための組織でもあるわけです。
 ここにちょっと幾つかのケースが書いてありますが、スポーツと政治についての近代スポーツの最初の大きな事件は、イギリスで起こりました。ピューリタン革命というのを昔高校生か中学生ぐらいのころにお習いになったと思います。清教徒革命と呼ばれていますね。この革命の発端は、ジェームズ一世という王様が、庶民にこういうスポーツを行いなさいという布告を出したことによります。
 つまり、サラセン人が攻めてくると大変だから、おまえたちはこういうスポーツを日曜日に一生懸命やりなさいという布告を出しました、スポーツの書といいますが。この書を出したことによって、当時、敬けんなる清教徒たちが、ピューリタンたちが、日曜日は安息日なのに、王がスポーツをやれと命令する、とんでもないと言って、それで反乱が起きました、スポーツの書を焼いて。これが実はピューリタン革命の発端だったわけです。
 このことがありますから、イギリスは非常にスポーツと政治の関係について慎重であり続けているわけです。ですから、今でもイギリスは、施策はありますが、スポーツに関する法律はありません。
 それは、そういう過去のケースがあって、同時に、さまざまな形でスポーツというのは潜在的な軍事力に結びつく可能性がある。
 幾つかのケースで申し上げれば、日本の場合ももちろんそうですね。あの一時期の不幸な時期には大政翼賛会の一角に名を連ねて、そして、体育やスポーツがすぐさま軍事教練に変わった歴史もあります。
 ここにちょっと書いておりますように、欧米のスポーツ団体が非常に高い社会的な地位を持ち、評価を受けている一つの背景には、第二次世界大戦の対ナチ闘争において非常に重要な働きをしたからです。それが、スポーツの自由ということを欧米の社会が担保する非常に大きな理由でもあります。
 そういうふうに考えていったときに、新しい法律の中においても、このスポーツの自由を担保するのはスポーツ団体である。そのスポーツ団体の自由、自治というのが国際的にそれを尊重することがうたわれていて、それは非常に重要なことだと、その点をぜひ忘れないでいただきたいというふうに思います。
 今回のエジプトの携帯を通じた大きな革命がございました。そのときに非常に大きな働きをしているのは、エジプトのサッカークラブでございます。それから、エジプトのサッカーのスターたちが民衆の先頭に立ってムバラク政権の打倒に動いた。これも非常に大きなことですね。
 また、今回の東日本の大震災に際しても、多くのアスリートが現地を訪問して、励まし、また、逆に励ましを受けたりしてきている。これも非常に大きな出来事ですが、それらはすべて、みずから進んでスポーツというものを持っていっているわけです。だれだれさん、そこへ行ってちょっと元気づけてこいというわけではないですよね。そこにやはりスポーツのすばらしさの原点があって、だから、自発的、自主的にスポーツが求められるとき、初めて、スポーツの持っている最良の部分が具体化するということです。
 これを、何々のために行いなさいという姿勢で法律をつくって、それは権利だよと言われても、実はちっともうれしくない。
 スポーツ基本法をもし制定するのであれば、そのあたりをぜひ御議論いただき、賢明な御判断をいただければ非常にありがたいというふうに思います。
 そして最後ですけれども、先ほどもちょっと申し上げましたが、国際的には、この現代社会のさまざまな状況の中で、スポーツが持っている可能性は非常に高く評価されております。それは、どの国も、文明が進んで先進化すればするほど医療費が並行して上がっていく、そういう時代ですから、もっと健康なライフスタイルをつくるということのために、スポーツは非常に重要だ。
 ただ、そこで非常に大きな違いがあるのは、例えばデンマークの人は、健康のためのスポーツというコンセプトは持っておりません。そうでなくて、あしたゴルフのコンペでいい成績を上げるために、きょうはちょっとワインを控えようか。つまり、スポーツのための健康なんです。
 これが、体育的定義と、スポーツとは一体何かということを本当に文化として尊重する立場からとらえたときの受けとめ方の違いになります。
 日本人は、元気年齢が終わってから死ぬまで、世界で一番長い時間を持っています。確かに平均余命は世界一ですけれども、元気余命が尽きて、それから介護を受けながら十年近い年月を過ごしてしまう。これはやはり、ライフスタイルの問題ですね。
 こういうことを考えたときに、欧米諸国でも、そこに書いてありますように、いわゆるグローバリゼーションの中でいろいろな人がいろいろな地域に入ってきて、そこで共同の生活を送っていく。それを可能にしていく一つのソフトパワーとして、ソーシャルインクルージョン、社会的包摂というふうに訳しておりますが、こういうことのソフトパワーとして非常にスポーツは有効だということも確認されております。ですから、さまざまなスポーツ振興の施策を欧米諸国もどんどんとってきております。
 ただし、その基盤にあるのは、先ほどから申し上げておりますように、スポーツは、みずから楽しみや喜びを求めて行う運動であって、それが本当に尊重されたときに、初めて、スポーツの持っている最良の価値が世の中に実現されるということなんですね。
 そのことをぜひ御記憶いただければ、私はきょうはお話を十分できたというふうに思います。
 ありがとうございました。

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